子供のような無垢さを持ち続けているという意味です。
(実際の子供は無垢じゃないですが。)
ネバーランド的な心は、年齢に関係なく持ち続けられると思います。
でも、一般的に言えば、大人でも子供でもない微妙な年齢で、特別な輝きを放つのかもしれません。
画家の村山槐多(1896-1919年)に「君に」という詩があります。
げに君は夜とならざるたそがれの
美しきとどこほり
げに君は酒とならざる麦の穂の
青き豪奢
すべて末路をもたぬ
また全盛に会はぬ
涼しき微笑の時に君はあり
とこしなへに君はあり
されば美しき少年に永くとどまり
ひの品よきぱつちりとせし
眼を薄く宝玉にうつし給へり
いと永き薄ら明りにとどまる
われは君を離れてゆく
いかにこの別れの切なきものなるよ
されど我ははるかにのぞまん
あな薄明に微笑し給へる君よ。
この詩に出会ったのは、高校時代に、ピンク・フロイドの初期ベスト盤のライナーノーツの中でした。
ライターの今野雄二さんが、「げに君は酒とならざる麦の穂の 青き豪奢」という部分を、ピンク・フロイドに捧げていました。
確かに、初期のピンク・フロイドには、そういう魅力が凝縮されていました。
(ちなみに、その10数年後、私は、ラリー・レヴァンが好きな今野さんの前で、皿を回したことがあります。)
この詩は、少年が持つ、永遠のトキに捧げられたものですし、プラトン的な少年愛のエロスを秘めているので、いろんな意味で違うところがあるのですが、それでも、ももやエビを見ていて、何度かこの詩を思い出したことがあります。
例えば、歌穂ちゃんの「歌う稲穂」という自己紹介を初めて聞いた時も。
