ももクロ 大人のネバーランドへ 1 | ももクロ→エビ中→東北産の魅力

ももクロ→エビ中→東北産の魅力

ネバーランドの住人、
永遠のトキを生きる
自然体の魅力。
ももいろクローバーZ論
→私立恵比寿中学論
→いぎなり東北産論

確か、杏果が映画のインタビューの時にだったか、
アイドルは感情を表現することが求められるのに対して、演技ではコントロールすることが求められる、
というようなことを言ってたと思います。

それはその通りだと思います。
これは、演技だけじゃなく、歌やダンスでも同じでしょう。

アーティストとしては、コントロールすることが求められます。
ももクロのメンバーは、今、コントロールすることを学んでいるのでしょう。


しかしです、コントロールした表現を行うだけでは、並の俳優、並のアーティストじゃないでしょうか。

コントロールできない自然に現れる表現がそこに加わってこそ、本物のアーティストになるのではないかと思っています。
(というか、これはアイドル/アーティストの択一を越えたところなのかもしれませんね。)

「Gounn」では、最終的な目標に到達するには、「自分の中から みちびく未知の力」が必要だと歌いました。
この「未知の力」は、コントロールできないもので、本物に導くものだと思います。


国立前後のももクロについて、あくまでも、本ブログの「自然体の技術」、「ネバーランド」の観点からの思いを、抽象的になりますが、シンプルな物語として書きます。
シンプルな物語がももクロですから。



まずは、昔の話から。

ももクロの新しいライブBDを買って見るたびに、青年館のDVDを見直したくなります。
見直すごとに、ますます、そのパフォーマンスに、驚きと感動を新たにします。

歌はCDを聞いてるようなものですが、ダンスや表情から伝わるものがすごくて、当時のパフォーマンスが、いかに特別な表現力を持っていたのかを、見直す度に、理解できるようになってきました。

地を裂き、くねる若芽の沸き立つ香りを濃密に発散するかのようなパフォーマンスです。
今のももクロは、成長した若木の香りを、当時の1/10でも発しているでしょうか?

「拙いけど全力」とか「若さ特有」と表現されることが多いですが、それだけでは、こんな感動はないと思います。

この頃のパフォーマンスの魅力は、一言でいえば、「無心の表現意欲」から生まれる、「自然で力動的な表現力」だと思います。

これは、スキルによって、コントロールして表現できるものではありません。

頑張ろうという意識的な気持ちが、パフォーマンスを引っ張る形になれば、本当に自然な表現にはなりません。

全力で頑張ってるグループは山ほどいますが、かつてもももクロから溢れていたのは、単にそういう気持ちではないでしょう。

かつてのももクロは、無心であることで、ダンスや歌から、今の思いや個性が、躍動感や喜び、訴えたいという気迫などなどが、力そのものとして溢れ出てきていました。

無心だからこそ、それが自分だけの思いではなく、グループとしての気持ちや、会場の気持ちをストレートに反映して表出していたと思います。


最近のももクロは、かつての、こういった自然な表現を抑制し(喪失し)、コントロールされた作為的な表現が増していると思います。

ドームやスタジアムに向けたショー化した演出・表現や、長時間のパフォーマンスでは、以前とは違うものが求めらやれるのはやむを得ないことです。

「5TH」などのコンセプチュアルな総合舞台芸術としてのアート化したパフォーマンスでも、違うものが求められたでしょう。

スキルアップによって、ダンスや歌のコントロールレベルが上がることも当然です。

イヤモニをつけることで、モノノフの声援やコールが、かすかにしか聞こえない(?)ことが、当たり前になってしまうのもやむをえないことでしょう。


でも、訴えたい、大きく見せたいという思いが強すぎると、その作為性(わざとらしさや力み)が表面に現れて、あるべき表現力を失います。

スキルで表現しようという思いが強すぎても同じです。



かつての自然で力動的な表出は、決して「作品表現」と無関係なものだったとは思いません。

アイドルで、こんな論評をするのはどうかと思いますが、ももクロなので、そして、日本にこだわってきた彼女たちなので、日本の芸能論の最高のフレームだと思う、金春禅竹の「六輪一露之記」に沿って書きます。

禅竹は、世阿弥の少し後の世代の、15Cの天才能楽師です。

「六輪一露之記」は表現に関わる、型の創造のプロセスでもあり、意識の階層でもあり、成長のステップでもある、6つの「輪」を語ります。

かつてのももクロは、その第3段階に当たる「住輪」、「型」にいたる直前の自然な力動が優位なパフォーマンスをしていたのだと思います。

内から現れる様々な力動が、型に向かいつつも、まだ内的な直感の創造力のままに留まっている状態です。

よく言われるような、高校野球の全力感とは違います。

これは、芸能の神である宿神の位相です。

それが本人たちの熱い表現衝動と結びついて、いろんなものが自然にダダ漏れになっていました。
これが、かつてのももクロにあった魅力の正体だと思います。


ももクロは「型破り」な傾奇者と言われましたが、パフォーマンスの表現では、「型」の手前の「力」の状態だったのが、今、「型」を身に付けようとしている、第4の「像輪」の段階にいるのでしょう。
コントロールすることが重要な段階です。

その先に、身に付けた「型」を自然に破る第5段階の「破輪」、つまり、真の「型破り」を経て、再度、絶対的な自然体になる第6段階の「空輪」へと至ってもらいたいと思います。
この2つの段階では、また、自然に溢れ出るものが重要になります。


最後の段階は、禅的に言えば、「無作の妙用」と表現される状態に近いでしょう。

禅竹は、この状態を、「ただ何気なくすっと立っているだけで、月があらゆる水たまりに光を落としているように、形姿に匂いが充ち、余情あふれんばかり」と表現します。

「型」がありながらも、作為が消え去り、「型」が自然の力動と一体化し、そこに溶け込んだ状態です。



私には、ここに書いた
 「住輪」→「像輪」→「破輪・空輪」
というプロセス、あるいは、
 「子供の自然性」→「大人の作為性」→「円熟した自然性」
というプロセスが、「灰ダイ」と「Gounn」の歌詞、そして、国立前後での運営の方針や、メンバーの言葉と、響きあっているように感じます。

それで、5TH以前以降、あるいは、国立以前以降と、結びつけて、物語ってみたくなります。


長くなったので、次回に続けます。